2010年12月09日

馬喰一代 中山正男の故郷2

馬喰一代 中山正男の故郷2


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。

 Simonsen, J. L. (1947)によれば、日本では2000年以上前からハッカとその成分(メントール)の存在が知られていたと言われています。そして江戸時代では日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、意外に知られていません。

 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマテラピーについて少し研究する必要があります。で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。ちなみに北見薄荷記念館は、ハッカ記念館とも呼ばれています。ハッカキャンディーのハッカです。かって北見では、世界のハッカの70パーセントを大量生産していました。では、ハッカとは何なんでしょうか?

 ハッカとは何か?

 分かりやすく言うと「ミント」のことを言います。シソ科ハッカ属の仲間です。このハッカが、医薬品として江戸時代から生産されていたのですが、北見で大量生産されることによって、世界中に輸出されることになりました。世界が、北見のハッカを欲していたのです。また、日本は、医薬品として、さまざまなハッカ製品を海外に輸出していました。つまり日本は世界最大のアロマ王国であったわけです。ですからフランスあたりからアロマテラピーなどが入ってきても、北見市民は、
「何をいまさら」
てなもんでした。アロマテラピーなら北海道の北見が元祖だぞと。

 論より証拠。
 それらの製品をみてみましょう。

 これはうがい薬にリップクリーム。
 見たことのあるものがたくさんありますね。

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 メンソレータムもハッカ製品でした。
 メンソレー(メントール)といった名前からしてハッカ製品であることがわかります。

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 うがい薬もハッカ製品。

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 当然のことながら仁丹もハッカ製品。

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 胃腸薬もハッカ製品。

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 各種の傷薬もハッカ製品。
 キンカンなんかは、代表的な製品です。

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 さらに目薬や湿布薬までハッカ製品。 
 サロンパスといったおなじみの製品が並んでいます。

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 というわけで、ハッカ産業は日本の最重要産業でした。
 ですから多くの人々が視察に来ています。
 昭和天皇陛下も御視察にこられています。


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 もちろん平成の天皇陛下(当時皇太子)も御視察にこられています。


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 脱線しますが、義宮(現天皇陛下の弟)様は、馬喰一代の大ファンで、映画馬喰一代のロケ地に行って撮影の様子を御覧になり、さらには、映画館にもいらっしゃいました。そして中山正男と対面し、一緒に写真まで撮っています。戦後とはいえ、皇室の方が「馬喰一代」といった下層階級の生態をえがいた映画をみたのは、ちょっとした事件であったかもしれません。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いとして、
「なぜ北海道の北見でハッカ産業が発達したのか?」
「それも、どうして日本のハッカだったのか?」
という疑問です。

 その疑問に答えてくれたのが、北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんです。

「そもそも、どうして北見のハッカが世界を席捲したのですか?」
「ハッカ草はまず蒸溜釜で蒸して原油を取り出します。そしてその原油を遠心分離器にかけて結晶と精油に分けます。この結晶こそ、ハッカ脳と呼ばれるものです」
「脳?」
「脳とは、一番大切なところという意味です。クスノキから樟脳をとりますよね。あれも脳です。樟脳は、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されています。で、クスノキで一番大切なところが樟脳。ハッカで一番たいせつなところがハッカ脳。」
「なるほど」
「ハッカ脳。つまりハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できなかったのです。西洋ハッカ、つまりペパーミントでは、作れなかったのです」
「そうだったんですか!」
「だから他の国ではハッカ油は抽出できても、ハッカ脳は精製できなかったんですね。しかも日本ハッカは、ペパーミントなどより良質な製油がとれたのです。これが北見のハッカが世界中で認められた理由です」
「なるほどねえ」
「ちなみにハッカは、栽培された土地によっても香りが変わり、日本のハッカの方が甘みが強く香り、やわらかです」


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 ちなみに北見市に入植が開始されたのは、明治30年の頃です。高知県の坂本龍馬の甥である坂本直寛らを主宰者とする移民(北光社移民団)112戸が北光社農場を開設し、四国人を中心とする平民屯田兵597戸が入植したのが始まりです。中山正男の父、中山米市も伊予松山から屯田兵の息子として北見に入植しました。

 当時、北見は、野付牛と言われていました。アイヌ語のヌプンケシ(野の果て)が語源で、最高気温が35度をこえ、最低気温がマイナス30度をこえる自然環境の厳しいところでした。さらに原野には、背丈より大きい熊笹が一面を覆っていました。場所によっては、山葡萄やコクワのツルが繁殖し、そこを歩くのも容易ではなかったといいます。そして、蚊柱などの虫の大群が人々を襲いました。

 そんな大地を開墾するのは、腰囲ではりませんでした。今と違ってブルドーザーもパワーショベルもない時代です。草木を伐採し、熊笹をぬき、石ころや切株を掘り起こし、やっとの思いで作り上げた小さな畑も、たいした実りは期待できず、ちょっと油断していると強い雑草に負けてしまいました。北海道の雑草は、夏の短さを知っているためか、とってもとっても強く、後から生えてきて、作物の実りを妨害しました。

 入植者たちは、頭をかかえました。
 そんな時、夢のような話しが舞い込んできました。

「雑草を生やすだけで金になるらしい」
「雑草を? そんなバカな!」
「いや、ほんとうだってよ。なんでもハッカという雑草が金になるだと」
「ハッカ?」

 ハッカというハーブは、もともと雑草であり、どんな植物よりも強かったのです。

「手間は殆どいらないんだと。強い雑草だから。おまけに香りが強くて虫も寄りつかないらしい」
「それがなんで金になる?」
「薬に使うらしい。湿布薬とか、毒消しの材料になるらしい」
「ほう・・・・・・」

 こうして北見にハッカ栽培がはじまりました。
 そして北見市は、世界最大のハッカ栽培地になっていくのです。
 そのハッカ栽培によって登場するのが、仲買人・雑貨商・馬喰たちです。
 馬喰一代の物語は、ここからスタートします。


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posted by ss at 16:50| 中山正男の故郷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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