2010年12月17日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編5

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編5

ここは、中山正男が生まれたサロマ湖のほとり。

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そして道の駅。

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どうでも良いけれど音楽をジャンジャン流すのはやめてほしい。
ダサすぎる。
田舎の観光地ほど、こういうところは無神経で、
音楽を流せばよいという考えは止めた方がよい。
センスを疑われますよ。

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しかし、この道の駅は、感心するところがあった。
地場産物を上手に紹介しているのである。

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これは地ビール。
思わず買おうかとおもってしまった。

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アイスも特色あり!
これも魅力的ですね。

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モエ要素まで!

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ホタテも食べてみた。
美味しい!
いや、うま過ぎる!
私の人生でに食べたホタテで一番おいしかったかも!

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蒸し牡蠣?
聞くとサロマ湖は、ホタテより牡蠣が名物らしい。

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待つこと10分で出てきました。

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食べたら美味しいのなんの!
最高!
厚岸や広島の牡蠣より美味しいかも知れない!
(失礼)
いや、これは最高でした!
牡蠣は、揚げものや、夜久りも
蒸した方が美味しいかも知れない。

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2010年12月16日

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編4

ここは、中山正男が生まれたサロマ湖のほとり。

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白鳥がいっぱいいます。

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馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編3

留辺蘂駅のそばに「馬喰一代」という地酒が売っていました。

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おもてには懐かしい遊具が。

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これが馬喰一代の地酒。

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これは酒風呂の元

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馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

馬喰一代 中山正男の故郷 番外編2

女満別空港レストランにて
北見といえば、ハッカでしたが、現在はハッカは作られていません。
石油から作る低価格の合成ハッカのせいです。

私はハッカ記念館の施設長の佐藤さんに
「でも、天然物の方が身体にいいんですよね?」
と聞いたのですがキッパリと
「同じです」
と言われてしまいました。

「メントールは、天然であっても合成であっても全く同じです。天然物の品質の良いモノ、つまり純度が高いモノほど合成のものに近くなります」

というわけで、北見では観光用の一部を除いてハッカは作っていません。
で、今は何を作っているかという「玉ねぎ」です。
なるほど北見の「玉ねぎ」は美味しい。
というわけで、女満別空港で北見の玉ねぎラーメンを食べてみました。


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玉ねぎにレモンをかけて食べます。
味は、玉ねぎに合う塩ラーメン。
薄口です。

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これ、最高に美味しかった!
ちなみに嫁さんは、サロマ湖のホタテ丼を注文していました。
サロマ湖のホタテのおいしさに病みつきになってしまったようです。

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2010年12月15日

馬喰一代 中山正男の故郷6

馬喰一代 中山正男の故郷6

 北見市が栄え始めたのは、大正に入ってからです。まず不毛の大地が、ハッカの生産によって潤いました。そして明治44年(1911)、池田〜野付牛(北見市)の間に鉄道ができて、木材の伐採がはじまりました。それまでは、樹を伐採しても輸送手段がなかったのですが、鉄道開設によって木材産業が栄えました

 さらに大正元年(1912)11月、野付牛(北見市)〜留辺蘂間に鉄道が開通することによって、留辺蘂は急速に発展しました。そして大正4年、野付牛村から分村独立して留辺蘂町(武華村)が誕生しました。留辺蘂町は、山に囲まれた場所にあるために、豊富な森林資源に恵まれていました。森林資源の開発によって、にわか成金がつぎつぎと生まれ、木材を運ぶ馬も高値で売れるようになりました。馬喰たちに幸福な時代がやってきたのです。


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 こうして北見や留辺蘂に、どんどん富裕層が生まれたわけですが、それらの金持ちが遊ぶ場所として、留辺蘂に、ポン湯温泉やオンネ湯温泉が開発され、花街が形成されました。飯盛り女(売春婦)たちも大勢集まりました。馬喰たちは、そこで遊びまくりました。そして気に入った女を身請けして妻としました。馬喰は、人々から蛇蝎のごとく嫌われていましたから、飯盛り女(売春婦)と一緒になることも多かったそうです。

 ちなみに留辺蘂町は、人口に対して異様に呉服屋が多いところです。その理由は、それらの呉服屋の大半が、かっては置屋(芸妓の抱元・今でいうタレント所属事務所)であったと言います。留辺蘂は、そういう町でもありました。大都市・北見市から金持ちが遊びに来る場所でもありました。これは留辺蘂図書館の大林さんの指摘によってわかったことです。


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 さらに大正9年(1920)には森林軌道が敷設されました。林業が盛になると、ますます馬の需要が増えてきます。馬喰たちは大活躍することになります。中山米市は、大正10年の秋に、サロマ湖から留辺蘂に移転することを決意します。その頃の留辺蘂は、木材景気で、どんどん人口が増え、馬喰たちのビジネスチャンスも大きく広がっていたからです。また、3番目の妻「ゆき」の病気(精神病)も気になっていました。無医村の佐呂間とちがって留辺蘂なら医者がいますから。またインテリの「ゆき」にとっても町はワクワクするところであり、電気がつながっており、汽車が通っており、映画が見られるというだけで嬉しかったようです。


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 中山米市は、留辺蘂の宮下町というところに家をかまえました。土地は、二百坪くらいあるでしょうか? 決して広い土地ではありません。ここに拠点を置き、馬の売買を行っています。留辺蘂の宮下町であったのか? 統合移転前の留辺蘂小学校(特別教授場)があったのと、留辺蘂駅逓があったためだと思われます。また背後に紅葉山がそびえ、山の幸が得られるためだったからかもしれません。


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 この頃は、鉄道開設とともに木材需要がのび、急激に人口が増え、三百名ほどしかいなかった小学校の児童たちが、3年くらいで千五百にもふくれあがるといった変わりようでした。子どもたちの増加に学校の拡大がおいつかず、二部制にして交代で授業をおこなったり、消防署や映画館を間借りして、ある学年は映画館(大黒座)で授業を行ったりしました。そういう所に、中山米市・正男親子は引っ越してきたのです。

 引っ越してきた中山米市は、すぐに留辺蘂のスターになります。

 木材とハッカ景気に湧いた留辺蘂には、全国からインチキ香具師が集まってきました。彼らは、子分をつかってサクラになってもらい、
「さあ、さあ、今落としたマルイチの丸をあてたものには、金時計一個を進呈しますよ。そのかわりあたらぬものは二十円、どうだ十八金の時計が二十円とは安いもんじやないか」
と見物客と賭をします。最初は、子分のサクラが、みごと金時計をせしめてみせます。それを呼び水に善良な百姓たちを騙して金を巻き上げるわけですが、一日で何千という大金をハッカ農家の親父がすってしまいます。それに強い義憤を感じた米市は、同僚の馬喰どもとさそいあって香具師たちと一戦たたかうために現れました。

「おい、その勝負、買った」
「よしきた、さあさあ、二十両積んだ」

 米市は、十円札二枚をつきつけました。
 そして賭勝負に打って出て、みごとイカサマをみやぶりました。

「何をするんだい」
「静かに手の平を見せろ」

 イカサマがばれた瞬間、香具師のサクラたちが腹から短刀をとりだし、米市をとりかこみました。イカサマがばれるたびに、このように百姓たちを脅して泣き寝入りさせるのが、香具師の常套手段です。しかし、今回は相手が悪かった。米市は、最強の喧嘩男であり、馬喰仲間も一緒でした。

「やい、てめいら、よくも今まで汗水ながして働いた百姓どんのハッカ(この地方の代表的農産物)の金をまきあげていやがったな。もう勘弁ならねえ。俺たち馬喰にとっては、百姓どんは大事な米櫃なんだ。命にかけても護らなくてはならない御相手さまだ、さあこのへんで一切合財幕にしてやるから、どっからでもやってこい」

 一人のサクラが、群集の中に消えました。
 それは駅前の宿屋に仲間を呼びに行ったのですが、
 彼らが大勢の仲間を連れてきた頃には勝負はついていました。
 しかし、香具師たちも
「このままじゃすまさないぞ」
と、身内を総動員して反撃をしようとして全北海道に動員をかけましたが、警察は、馬喰たちの味方になって手打ちになり、インチキ香具師たちは二度と留辺蘂にやってきませんでした。米市は、香具師叩きの米と言われるようになったと言います。(馬喰一代より)

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つづく

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2010年12月12日

馬喰一代 中山正男の故郷5

馬喰一代 中山正男の故郷5

 馬喰一代によれば、中山正男は、サロマ湖湖畔のカワグチというところに生まれたといいます。ところが、カワグチという地名は地図では確認できません。ただ、馬喰一代の記述により、浜佐呂間あたりだと推測することができます。これが浜佐呂間の町。そしてサロマ湖の近くです。当時は、電気も店もなかったと言います。

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 米市は、このあたりで漁師の手伝いをしながら馬喰をやっていたと言います。兼業しているところをみると、この頃は、まだ馬喰という職業は、羽振りのよい職業ではなかったようです。ちなみに米市のライバルである尾崎天風も、馬喰から身をおこしてサロマ湖あたりで木材の事業をやって大儲けしていました。

 この尾崎天風は、偶然にも田澤義鋪の故郷・佐賀県鹿島の生まれの人です。北見市史編さんニュース64号および馬喰一代によれば、明治31年にサロマ湖に移住してきて、常呂(サロマ湖)と野付牛(北見)を結ぶノッケ街道の駅逓馬橇の御者をしていました。彼は山に火をつけてその山の焼木や破損木の払下げを願い、もし許可になったら、この時とばかりに近くの山の盗伐をやって、許可石数の何倍も伐りまくる。それを坑木や製材にしてボロい儲けをしたと言われています。

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 そして大正の始め頃には佐呂間の役場の隣で料理屋を経営し、大正3年の佐呂間村分村独立のときにく役人を接待し、役場も当初村民が陳情した場所と違う「佐呂間市街、天風の料理屋の道路向」に決定し、料理店の一部を月8円で借上げて改装し仮庁舎として開設しました。そして、大正4年には釧路新聞支社の肩書きも得たと言います。しかし、馬喰一代にあるように本人は、無学にちかく文字を覚えたのは、兵役後、二十歳の中山正男すぎてからだと言われています。


 中山正男の生家から4キロほど西に行った幌岩に生母「はるの」の実家がありました。
 これが幌岩の風景です。

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 また、幌岩には、幌岩山があり、展望台があります。
 眼下にサロマ湖が見渡せます。

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 この幌岩から、吹雪の中を4qほど歩いて、中山正男に乳を飲ませに通ったといいます。


 これが武富士。

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 中山正男の家から10qも離れています。学校で使う文房具は、ここまで歩いて行かないと買えませんでした。父の米市は、教育熱心で、中山正男が日記を書き損じたりすると、容赦なく破り捨てられ、武富士まで買いに行けと怒鳴られました。当時、7歳の中山正男は、夜中に10qの道を歩いてノートを買いに行かされました。もちろん熊が出て危険ですから、父の米市も提灯をもって、こっそり後をつけていったと言います。


 そんな教育熱心な米市は、中山正男の教育のために女学校出の母親(後妻)をさがしますが、無学な馬喰に女学校出のインテリ嫁がくるはずもありません。しかし、留辺蘂の西にある大温泉地帯である「温根湯」に身をもち崩して売春で生活している「ゆき」という女性がいると聞いた米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 この「ゆき」が3番目の母親になるわけですが、
 「ゆき」が働いていた「温根湯」には、有名なキタキツネ牧場があります。
 留辺蘂は、あちこちにキタキツネ牧場がありますが、
 温根湯のキタキツネ牧場が一番有名です。

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中には、おいなりさんがあって、鳥居の中に本物のキツネが寝ています。

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これは、樹に登ってイチイの実を食べているところ。

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話しは変わりますが、この温根湯は、大温泉地帯でした。
そして、多くの温泉旅館がたちならびました。
そして、花街が形成されました。

留辺蘂にも旅館が解説されました。
留辺蘂にもポン温泉がありました。

アイヌ語で、オンネとは、大きいの意味。
アイヌ語で、ポンとは、小さいの意味。

つまり留辺蘂にある大きい温泉が、温根湯温泉。
つまり留辺蘂にある小さい温泉が、ポン温泉です。

で、留辺蘂には、この2つの温泉が開発され、旅館がたくさんでき、
売春婦たちも大勢あつまってきました。
温泉街に御客さんが集まるということは、羽振りのよかった人がいたということです。

つまり、北見にはもハッカで儲けた人がおり、
それに寄生するかたちで、馬喰(家畜販売)で儲けた人がおり、
彼らが遊びに来るところが、ポン湯のあった留辺蘂であり、
温根湯温泉であったわけです。
その温根湯温泉に、新潟から駆け落ちしてきて、亭主に死なれた女性がいました。
その女性が、中山正男の3番目の母親になります。

つづく

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2010年12月11日

馬喰一代 中山正男の故郷4

馬喰一代 中山正男の故郷4

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「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」
「違います」

 佐藤敏秋さんは言いました。


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「3万円の馬を買って、4万円で売る。そういう商売で、馬喰が生きていたわけではないのです」
「え?」
「それでは儲かりませんから、3万円の馬を10万円にも、20万円にもするには、別の知恵が必要でした」
「・・・・」
「3万円の馬が、10万円にならないとすると、馬喰たちは農家に『この馬は病気だ』と言って返品するわけです。そして、しばらくして馬主に、バカな飼い主を見つけたから、俺が3万円で売ってやるから、売れたら1万円よこせと、話しをもちかけます」
「はあ」
「で、馬の飼い主には、バカな売り主がいるから、10万の馬を5万円で買ってきてやるから、俺に1万円よこせと言う。そして、売り主と買い主の両方を騙して、両方から金をせしめるわけです。そのうえ裏金ももらうことにする」
「なるほどねえ」
「しかも、馬喰たちは、売買後もトラブルがあると両者の間に入って、示談役として両者から金をせしめたりもしました。そのうえ売り主と買い主から情報を仕入れて、ハッカの仲買人に情報を売ったりしました。なにせ農家と密接に繋がっているから、場合によってはハッカ商の手下になることもありえました」
「へえー」

 中山正男の『馬喰一代』には、馬喰という職業は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと何度も書いてありますが、佐藤敏秋さんのお話によって、その理由が分かった気がしました。やりくちがヤクザとたいして変わらないからです。


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 しかしよく考えてみれば、このようなことは開拓時代の北海道では、あたりまえであったのです。北海道の名付け親である松浦武四郎の記録をよめば、開拓時代の北海道では、商人たちが、どれほどあくどいことをやってきていたか、いやというほど書いてありますから、北海道史をかじった者なら知らない人はいません。だから今でも北海道は、農協の力が強いのですね。

 そういう環境の中で、中山正男の父である米市は、自らハッパ馬喰(インチキ馬喰)を禁じ手にしました。理由は、息子の正男のためです。


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 ここで、中山正男の生い立ちを書いてみます。
 映画『馬喰一代』には、それにふれてませんし、
 直木賞候補となった小説の方も多少の脚色があって正確ではありませんから、
 補則の意味で書いておきます。


 中山正男が生まれたのは、北見の留辺蘂ではなく、佐呂間村でした。父の米市は、馬喰の仕事をしながらサロマ湖のほとりで猟師の手伝いをしていました。場所は浜佐呂間のあたりです。ここで中山正男は、父の米市、母の「はるの」の子として生まれます。はるのは、平凡な農家の娘で右を向けと言えば、三年でもだまって向いているというような大人しく柔順な人でした。その両親のもとで生まれたのが中山正男です。明治44年1月26日のことです。



写真は、浜佐呂間の町
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写真は、サロマ湖YH
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 米市は、動物のように正男を可愛がりました。毎日、息子の寸法をはかり、足の太さや胸囲まで暗記したと言います。そして可愛い寝顔を何時までも覗いていた米市は、正男の顔に墨をぬってひげをはやしたり、眉を太く書いたり、眼鏡を書いたりして遊んだといいます。その親バカぶりは、正男が、怪我をして血を吹いて倒れていた時には、馬具をかける間ももどかしく、裸馬のまま、網走の病院まで三十キロも走った事もありました。


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 ところが、その米市が浮気をしました。

 馬喰たちは、よく料亭に通いました。当時の料亭には、売春婦たちがいました。米市は料亭の女を買うようになりますと、売春婦たちの寝技にすっかり参ってしまいました。そうなるとマグロの女房には、ものたりなくなり、ついには前妻を暴力でもって雪の降る中に追い出してしまいました。生母は、
「めかけでも良いですから、ここに置いてください」
と泣きながら懇願しましたが、米市は、生母を追い出して売春婦の「その」を二番目の妻に迎えました。酷い話です。

 しかし、けなげにも生母は、夜に米市の家に忍び込み、こっそり正男に乳を飲ませました。そして、それが米市にバレて半殺しにされました。生母は泣く泣く正男と別れざるをえませんでした。しかし米市は「その」に逃げられてしまいます。このへんの描写は、映画にも小説にも書かれてありません。生母は病気で死んだことになっています。



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 ここから、クレイマークレイマーばりの、父親と息子の二人暮らしになるのですが、子煩悩の米市は、息子のために女学校出のインテリの売春婦を身請けして妻にします。三番目の妻である「ゆき」です。プライドの高い米市は、ゆきの前で土下座して
「息子のために後妻になってくれ」
とたのみこんだと言います。

 インテリの「ゆき」は正男を可愛がりました。そして米市の見込んだとおり、三番目の母は、正男の教育のために精魂をかたむけました。そのせいか中山正男の成績はあがりました。さらに「ゆき」は、米市にも手紙で注文をだしました。

「子供はその親を手本とします。とくに悪い事を真似たがるものです。お願いですから、正男のいるわが家で宴会を開いたり、賭博をするのはやめて下さい」

 短気な米市も、正男の教育問題に関しては、三番目の妻の言いつけを守りました。米市は、しだいに父親らしくなり、家庭的になっていきました。そして正男は、成績がトップになり、総代まで選ばれました。しかし、子供というものは残酷でした。
「やーい、お前の母ちゃん淫売(売春婦)!」
とはやしたてるクラスメイトたち、それが大合唱となる事もありました。正男は
「違うわい」
と涙ながらに拳骨で反撃し大乱闘となりました。

 米市は、そんな正男と母親のために、引っ越しを決意。
 サロマ湖畔から、留辺蘂へ移ったのです。
 大正十年の秋でした。
 その歳は、のちの盟友・横山祐吉が、東京音楽学校(芸大)に入学した歳です。
 

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2010年12月10日

馬喰一代 中山正男の故郷3

馬喰一代 中山正男の故郷3

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 ハッカは、最強のハーブでした。
 古くは漢方薬として使われましたし、
 抗菌性が強いために防腐剤や防虫剤や芳香剤としても偉大な力を発揮しました。

 特にダニに対する効果が強く、どんなダニも殺虫しました。
 アリやゴキブリもハッカの威力で姿を消し、
 ネズミさえもよせつけません。
 だから有力な殺虫剤が存在してなかった頃は、
 それに代わるものとして世界中の人々が北見のハッカ結晶体(ハッカ脳)を買い求めました。


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 日本のハッカ結晶(ハッカ脳)は、世界各地に輸出されました。
 ハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できませんでしたから、
 ハッカ結晶の世界市場は日本の独占状態となりました。
 特に北見地方のハッカが世界市場を制圧しつつありました。

 その理由は、北見地区が自然条件の厳しい
「日本最後の開墾地」
 であったことにあります。
 雑草が強く荒れた土地を開墾するには、非常に大きな労力が必要となります。
 麦であっても、大豆であっても、壮絶な自然との闘いが必要なのです。
 仮にやっと穀物が実ったとしても、鹿や熊たちが遠慮なしに食べにやってきます。


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 でもハッカの栽培には、そんな苦労はいりませんでした。もともと強い雑草であるために、他の雑草との戦いに負けることはないし、その実りを熊や虫たちに奪われることもありませんでした。そのうえ北見は、もともとハッカ生産の処女地であったために、他のハッカ品種との交配による害も少なく、純度の高いハッカ生産ができ、良質な製油と結晶を生産できました。

 しかし、なにより北見の人たちがハッカを栽培した最大の理由は、もっと別の所にありました。輸送の問題です。北見市は、北海道の一番遠い内陸にあります。そこから豆などの穀物を市場に輸送するには、莫大な経費がかかるのです。これでは市場競争に勝てません。

 しかし、ハッカとなれば別です。
 ハッカなら、ハッカの輸送は考えなくても良い。

 ハッカを精製し、製油や結晶に変えてしまえば、加工品は、かなり小さくなって輸送費もかからないし、付加価値も大きくなります。そういう意味で、ハッカくらい北見の産業に適したものはなかったのです。そのために最盛期には、栽培面積2万ha、取卸油収穫量千トンという膨大な数字が記録されています。そして、それらから湿布薬・筋肉痛薬・メンソレータム・ドロップ・セキ止め薬・胃腸薬・かぜ薬・目薬・かゆみ止め・育毛剤・水虫薬・虫よけ・抗菌剤・歯磨き粉・仁丹・口臭除去剤・シャンプー・化粧品・石鹸・洗剤・などが生産され世界中に輸出されました。


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 しかし、「ハッカが儲かる」と言う話しが全国に伝わると、日本中の事業家が北見に集まりました。そして商魂たくましい仲買人が暗躍し、ハッカで一旗あげようと色々な手段を講じるようになってきたのです。

 北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常にうまく立ち回りました」
「というと?」
「カルテルを結んで、農民たちからハッカを安く買いたたこうとしました」
「でも農民もバカじゃないですよね」
「はい。しかし、仲買人は、一筋縄ではいかない連中なんですよ」
「・・・」
「例えば、Aという仲買人が、ある農家の所に買い付けに行きます。相場が45円なので45円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。しかし、Aという仲買人は、アッサリひきさがります」
「ほう」
「次の日、今度はBという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が45円から40円に下がったので、40円で売ってくださいと言うのです。農家は、安すぎると言って売りません。もちろん、Bという仲買人は、アッサリひきさがります」
「・・・」
「そして、その次の日、今度はCという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が40円から35円に下がったので、35円で売ってくださいと言うのです。こうなると、さすがに強気だった農家も、不安になってくる。ハッカが暴落するのではないかと、気が気でない。そこをつけ込んで『ハッカの値段が暴落していく可能性があるから早く売った方がいいよ』と忠告する。しかし、それでも農家が断ると、Cという仲買人も、アッサリひきさがります。決して無理強いしません」
「・・・」
「そして、そのまた次の日、今度はDという仲買人が、その農家の所に買い付けに行きます。相場が35円から30円に下がったので、30円で売ってくださいと言うのです。こうなると農家も、かんねんして30円で売ってしまうのです」
「それじゃ詐欺みたいなものじゃないですか」
「そうです。そのために泣いた農家が何軒もあり、儲けるところはドンドン儲けました」

 これがカルテルの本質です。
 こういう事があるから近代国家は、
 独占禁止法という法律でカルテルを禁止しているのです。

 しかし、開拓時代の北海道には、海千山千の欲の塊が跋扈しており、
 ちょっとでも油断していたら生き血を吸われるのがあたりまえでした。


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 そのへんは西部開拓時代のアメリカと似ているかもしれません。
 このへんの事情は、映画『馬喰一代』をみると、非常によくわかります。
 実によく描かれています。
 さらにハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんは言います。

「仲買人たちは、非常に情報を集めました。情報は金になったのです」
「どんな情報ですか?」
「農家へ挨拶まわりに行くのです。そして世間話をしてくる。で、その農家に金があるかどうかを調べるのです。金があれば、相場が上がるまでハッカを売ってくれない。しかし、金が無くなれば、相場が下落してもハッカを売ってくれる。安くハッカを手に入れるには、そのへんの情報が無いといけない」
「なんとまあ・・・・」
「それで、さまざまな手段で情報を仕入れるわけです。馬喰なんかを使って農家の情報を仕入れるわけです」

 ここで私は、本題にはいりました。

「北見市には馬喰が多かったですか?」
「多かったですねえ」
「いつ頃まで多かったのでしょうか?」
「昭和35年頃まで大勢いました」
「なぜ馬喰が多かったのでしょう?」
「昭和35年頃までは、北見市に車もトラクターも無かったんです。動力はもっぱら馬なんです。馬がなければ話にならなかった。だから大勢の馬喰がいたんです」
「では、基本的なことを聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「馬喰って何なんですか? ものの本によれば、家畜商とあります。辞典で調べても家畜商。インターネットで検索しても家畜商と出てきますが、家畜商のことを馬喰と言うのですか? もし家畜商が馬喰のことだとすると、どうして中山正男は、みんなから蛇蝎のごとく嫌われたと書いたのでしょう? 本当に家畜商が馬喰のことを言うのでしょうか?」

 施設長佐藤敏秋さんは言いました。

「違います」


つづく
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2010年12月09日

馬喰一代 中山正男の故郷2

馬喰一代 中山正男の故郷2


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。

 Simonsen, J. L. (1947)によれば、日本では2000年以上前からハッカとその成分(メントール)の存在が知られていたと言われています。そして江戸時代では日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、意外に知られていません。

 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマテラピーについて少し研究する必要があります。で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。ちなみに北見薄荷記念館は、ハッカ記念館とも呼ばれています。ハッカキャンディーのハッカです。かって北見では、世界のハッカの70パーセントを大量生産していました。では、ハッカとは何なんでしょうか?

 ハッカとは何か?

 分かりやすく言うと「ミント」のことを言います。シソ科ハッカ属の仲間です。このハッカが、医薬品として江戸時代から生産されていたのですが、北見で大量生産されることによって、世界中に輸出されることになりました。世界が、北見のハッカを欲していたのです。また、日本は、医薬品として、さまざまなハッカ製品を海外に輸出していました。つまり日本は世界最大のアロマ王国であったわけです。ですからフランスあたりからアロマテラピーなどが入ってきても、北見市民は、
「何をいまさら」
てなもんでした。アロマテラピーなら北海道の北見が元祖だぞと。

 論より証拠。
 それらの製品をみてみましょう。

 これはうがい薬にリップクリーム。
 見たことのあるものがたくさんありますね。

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 メンソレータムもハッカ製品でした。
 メンソレー(メントール)といった名前からしてハッカ製品であることがわかります。

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 うがい薬もハッカ製品。

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 当然のことながら仁丹もハッカ製品。

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 胃腸薬もハッカ製品。

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 各種の傷薬もハッカ製品。
 キンカンなんかは、代表的な製品です。

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 さらに目薬や湿布薬までハッカ製品。 
 サロンパスといったおなじみの製品が並んでいます。

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 というわけで、ハッカ産業は日本の最重要産業でした。
 ですから多くの人々が視察に来ています。
 昭和天皇陛下も御視察にこられています。


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 もちろん平成の天皇陛下(当時皇太子)も御視察にこられています。


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 脱線しますが、義宮(現天皇陛下の弟)様は、馬喰一代の大ファンで、映画馬喰一代のロケ地に行って撮影の様子を御覧になり、さらには、映画館にもいらっしゃいました。そして中山正男と対面し、一緒に写真まで撮っています。戦後とはいえ、皇室の方が「馬喰一代」といった下層階級の生態をえがいた映画をみたのは、ちょっとした事件であったかもしれません。


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 まあ、そんなことは、どうでも良いとして、
「なぜ北海道の北見でハッカ産業が発達したのか?」
「それも、どうして日本のハッカだったのか?」
という疑問です。

 その疑問に答えてくれたのが、北見ハッカ記念館の施設長佐藤敏秋さんです。

「そもそも、どうして北見のハッカが世界を席捲したのですか?」
「ハッカ草はまず蒸溜釜で蒸して原油を取り出します。そしてその原油を遠心分離器にかけて結晶と精油に分けます。この結晶こそ、ハッカ脳と呼ばれるものです」
「脳?」
「脳とは、一番大切なところという意味です。クスノキから樟脳をとりますよね。あれも脳です。樟脳は、血行促進作用や鎮痛作用、消炎作用などがあるために主に外用医薬品の成分として使用されています。で、クスノキで一番大切なところが樟脳。ハッカで一番たいせつなところがハッカ脳。」
「なるほど」
「ハッカ脳。つまりハッカの結晶は、日本で栽培されていた和種ハッカでないと精製できなかったのです。西洋ハッカ、つまりペパーミントでは、作れなかったのです」
「そうだったんですか!」
「だから他の国ではハッカ油は抽出できても、ハッカ脳は精製できなかったんですね。しかも日本ハッカは、ペパーミントなどより良質な製油がとれたのです。これが北見のハッカが世界中で認められた理由です」
「なるほどねえ」
「ちなみにハッカは、栽培された土地によっても香りが変わり、日本のハッカの方が甘みが強く香り、やわらかです」


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 ちなみに北見市に入植が開始されたのは、明治30年の頃です。高知県の坂本龍馬の甥である坂本直寛らを主宰者とする移民(北光社移民団)112戸が北光社農場を開設し、四国人を中心とする平民屯田兵597戸が入植したのが始まりです。中山正男の父、中山米市も伊予松山から屯田兵の息子として北見に入植しました。

 当時、北見は、野付牛と言われていました。アイヌ語のヌプンケシ(野の果て)が語源で、最高気温が35度をこえ、最低気温がマイナス30度をこえる自然環境の厳しいところでした。さらに原野には、背丈より大きい熊笹が一面を覆っていました。場所によっては、山葡萄やコクワのツルが繁殖し、そこを歩くのも容易ではなかったといいます。そして、蚊柱などの虫の大群が人々を襲いました。

 そんな大地を開墾するのは、腰囲ではりませんでした。今と違ってブルドーザーもパワーショベルもない時代です。草木を伐採し、熊笹をぬき、石ころや切株を掘り起こし、やっとの思いで作り上げた小さな畑も、たいした実りは期待できず、ちょっと油断していると強い雑草に負けてしまいました。北海道の雑草は、夏の短さを知っているためか、とってもとっても強く、後から生えてきて、作物の実りを妨害しました。

 入植者たちは、頭をかかえました。
 そんな時、夢のような話しが舞い込んできました。

「雑草を生やすだけで金になるらしい」
「雑草を? そんなバカな!」
「いや、ほんとうだってよ。なんでもハッカという雑草が金になるだと」
「ハッカ?」

 ハッカというハーブは、もともと雑草であり、どんな植物よりも強かったのです。

「手間は殆どいらないんだと。強い雑草だから。おまけに香りが強くて虫も寄りつかないらしい」
「それがなんで金になる?」
「薬に使うらしい。湿布薬とか、毒消しの材料になるらしい」
「ほう・・・・・・」

 こうして北見にハッカ栽培がはじまりました。
 そして北見市は、世界最大のハッカ栽培地になっていくのです。
 そのハッカ栽培によって登場するのが、仲買人・雑貨商・馬喰たちです。
 馬喰一代の物語は、ここからスタートします。


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posted by ss at 16:50| 中山正男の故郷 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年12月08日

馬喰一代 中山正男の故郷1

馬喰一代 中山正男の故郷1

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日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を訪ねる。

 2010年11月29日から、12月3日まで、日本ユースホステル運動の父、中山正男の故郷を調査してきました。中山正男は、北海道北見国サロマ湖畔の佐呂間村に生まれました。そして、北見市の西側にある留辺蘂町に引っ越し、ここで小学校を卒業し、札幌の第二中学校に入学。そして、上京し、専修大学に入りますが、中退します。

 と、書くと何やら教養人ぽい家庭に育ったような気がしてきますが逆でした。中山正男の父、米市は無学で粗暴な馬喰であり、母親は4人もかわっていました。最初の母親は、浮気のすえ米市が追い出してしまい、2番目の母親は別の男と駆け落ちで逃げてしまい、3番目の母親は発狂して死んでしまい、4番目の母親は全盲になり死んでしまった。4人の母親は、中山正男が小学校を卒業するまでの12年間にかわっており、そして、そのうちの2人は行方不明であり、2人は死んでしまっています。

 こういう家庭環境で育った中山正男ですが、数々の事業をてがけ、多くの文学を発表し、直木賞候補にもなり、その作品の多くが映画化・テレビ化されました。なかでも最も有名なのが『馬喰一代』です。4人の母親に去られて父一人・子一人の物語。父性愛をえがいた『馬喰一代』とその映画は、日本中の人間の瞼を涙で濡らしました。


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 日本ユースホステル運動史の中心人物中山正男を語るには、この馬喰一代をぬきには語れません。というのも中山正男ほど、青少年運動に縁が遠かった人間もないからです。最悪の家庭環境に生まれ育ち、素行も行儀も悪く、ともすれば社会常識に欠ける部分もあった中山正男は、とてもじゃないが青少年を指導するという柄ではなかったはずなのです。にもかかわらず、日本ユースホステル協会を創設し、最終的に会長となって活躍するのは、映画『馬喰一代』を見て涙したものなら、小説『馬喰一代』を読んで涙したものなら、何の違和感もないでしょう。

馬喰一代は、無法松の一生と並んで、父性愛をテーマとした日本映画の最高傑作であることは、まちがいありません。チャップリンのキッドよりも、ハリウッドのクレイマークレイマーよりも、泣かせるドラマでした。


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 しかし、馬喰一代には脚色がありました。真実は、もっと悲惨であり最悪だったのです。あまりにも悲惨すぎて逆にリアリティが無いので、悲惨さをオブラートに包み、よりマイルドにしてあったのです。主人公の米市にしても、もっと粗暴でした。しかし事実を事実として書いてしまうと、かえって嘘くさくなるので、映画や小説の馬喰一代は、あえて粗暴な父親のキャラクターを抑え気味にしてありました。そういう悲惨な境遇から中山正男は、這い上がっていき、日本史を変えるほどの大活躍をするのですが、その彼が日本ユースホステル協会を設立した時には、

「はて? どうしてなのか?」

と回りの人間は訝しがりました。中山正男ほど、青少年運動と縁の薄い人間もなかったからです。現に、日本ユースホステル協会の会長になった時に、

「これじゃ銀座で飲むことも出来ない。ホステスの手を握ろうとしたらユースホステルの会員証をだしてくるんだものなあ」

と困惑したくらいです。中山正男は、決して清廉潔白な人間でなかったし、聖人君子でもなかった。むしろ人間としてはゲスな部類であり、ダジャレや猥談に熱中し、時にアッとみんなを驚かせるほどの奇矯を行いました。その彼が、日本ユースホステル協会を設立した理由は、何であったか?

 すべては『馬喰一代』にあります。
 そこに全てが書かれてあります。
 では、馬喰一代とは何であったのか?

 私は、その謎を解くために、北海道は、北見市に向かいました。
 たったの4日間の旅ですが、馬喰一代の世界をみつけるために。


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 最近、アロマテラピーという言葉を聞くことが多くなりましたが、アロマテラピーは、1920年代はじめ、つまり大正10年頃に、フランスの香料の研究者であったルネ・モーリス・ガットフォセ(1881年-1950年)が、火傷をしたときに、とっさにラベンダー精油に手を浸したところ傷の治りが目ざましく良かったことから、精油の医療方面での利用を研究し始めたことから始まったと言われています。つまりアロマテラピーじたいは、比較的最近になって提唱された療法であり、盛んになったのは戦後になってからです。


 しかし、日本では江戸時代から日本式のアロマテラピーが盛んであり、明治時代においては、北海道北見市付近において大々的に生産され、一時期は世界の70パーセントの市場を独占していたことは、以外に知られていません。


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 馬喰一代の世界を語るには、北見のアロマについて少し研究する必要があります。
 で、私が訪ねたのが北見薄荷記念館です。
 この記念館は、中山正男の正体を解明するのに重要な施設であったりします。


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つづく

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